にもかかわらず、( a )になってみれば、居ながら荞麦屋でもすし屋でも、ためしたことはないが警察にでも出前(注2)を注文することができるというのは、じっさい愉快、痛快、喝采にあたいする。いざというとき110番(注3)のかわりに「助けて!すぐ来てください、警察御中」と手纸を出す(もちろんその前にはがきや切手をさがす、それから速达料金はいくらだったか思い出す ……)という手间を思えば、どう考えたって、电话を呪うことなど⑤とんでもない忘恩というもの である。
无论、( b )にしてみれば、邮便のほうが概して控えめで、好感がもてる。(中略)急用でもあれば、帰ってから开封することにして、テープルの上にほうり出したまま出かけてしまってもいいび手纸はおくゆかしく、とちらが返事をするまでけたたましい音をたてつづけたりはしない。
手纸がめんどうなのは、さよう、自分が( c )にまわったときのことである。电话不精ということばはまだないけれど(个人的に私にはあるのだが)、笔不精という悩みは确実に存在する。と、ここでちょっと⑥不安になって、ひょっとすると不精ではなく无精だったかしら……と、思いまどう(注4)ところが、すなわち手纸を书くのはくたびれるという理由のひとつに相违ない。